好きなプログラミング言語の好きなところについて思った

2017-09-24 / [haskell] [clojure] [elm]

改めて最近実感すること。

Haskell, Elm, Clojureほんと好き。

Scala勉強しなきゃなーと思いながらClojureを触ってしまうことが多かったのだけれど、 その理由が少しずつわかってきた。

いい言語たち

いままで少しだけ触れてきたJava, Python, Scala, Goはいずれもとても大きなユーザを抱えている。 どの言語もたくさんのユーザを得るために現場で使えるようなエコシステムをどんどん投下してあっという間に大きなユーザベースを獲得した。

プログラミングのしやすさを大事にして、誰でもすんなり入門できるように設計されている。 僕が入門できるくらいだから本当に敷居が低くて、けれどどんなやりたいことも実現させてくれるいい言語ばかりだ。 押し付けがましい思想も少ない。

たのしい言語たち

一方でHaskell, Elm, Clojureはちょっと独特だ。

HaskellではMonadicなプログラミングやSTM, デフォルト遅延評価など今まで触れたこともないようなパラダイムで溢れていた。

ElmではElm Architectureという一見してみると強い制約のもとでWeb UIを構築しなければいけなかった。

ClojureではREPL駆動開発やtransducer, 状態のオペレーション(STM, Atom, Agentなど)という独特なキーワードが骨子になっている。

(あ、全部関数型プログラミングだ。。。)

いずれも今までの自分には聞いたこともないような概念ばかりで、きっと解らなくてすぐに挫折してしまうだろうと思った。 だけど全然そんなことはなかった。むしろ楽しかった。

やりたいことが手元にあって、それを実現するためにどうしようかと考える時、Haskell, Elm, Clojureではまず素直に落とし込めない。 どんなやり方があるのか調べて、どれがその言語らしい XXX way なのかを知っていかなければいけない。 本当に手間がかかることが多い。

なのになんでこんな楽しいのだろう。進まない。進まないのに。

簡単≠たのしい

その制約のせいか、「できた!」と思った時の瞬間が本当に嬉しい。やっていることは全然大したことない。 SpringBootとかDjangoとか使えば瞬殺なのだろう。

でも、なんというか、その言語の思想に沿うように実装できた時の嬉しさは要求を鮮やかに実現できた時の歓喜とは別の何かだ。3Dプリンターで模型を切り出すのではなくて、彫刻刀で大仏を彫り出すような変なドグマの混じったカタルシスを感じる。

何ができるかではなくて、どうやるかが楽しい。 ほんと、仕事としてプログラマやっている人間としては全然駄目だと思う。 実際問題、顧客の要求を低コストで十分に実装する能力や判断力の方が絶対にお金は入るはずなんだ。 成果物や収益から逸脱して、作法や流儀や過程に楽しみを見出してコストを支払うなんて多分駄目なはずなんだ。

でも何故だろうか、遠回りなのに美しい道が用意されているように見えるプログラミング言語ばかり好きになってしまう。 マーケットとか人材の需要とかじゃなくて、思想や信念や流儀に見え隠れする怪しさ(妖しさ?)に惹かれてしまう。

本当はScalaPythonやGoに触れて経験を積んだ方がきっとすぐに応用に入れる場面も多いはずなのに。 どうもそういう打算が働かず、ただただ楽しいと思うプログラミング言語に傾倒していくのを自ら止められずうろうろしている。

幸い、Haskell, Elm, Clojureはプロダクションでの採用事例も増えてきている。いずれ自分が書いたHaskell, Elm, Clojureのコードがプロダクション環境で動く日が来たらいいなあ、と思う。

Erlangとかもなんだか光背が見える言語だ。。。気になる。

ネットワーク機器の制御とかでHaskell, Elm, Clojureあたり使っている会社の仕事とかあったらいいなー。 ネットワーク(特にバックボーン)業界はだいたいPythonJava, Goなのでもう少し僕が好きなプログラミング言語の実装増えてこないかなあ。

(自分で書いていけってことか。。。)